挑戦し続けること、前を向いて走り続けること

藤井 滋氏

<藤井 滋・プロフィール>
1924年生まれ。不二印刷株式会社 会長。愛媛県中小企業家同友会 相談役。
愛媛県中小企業家同友会創立準備から参画。1985年愛媛同友会初代代表理事並びに中小企業家同友会全国協議会常任幹事に就任し1990年まで努める。現在は、相談役。
藤井氏の“自主・自立・自由”を愛する精神は、愛媛同友会の設立時の逆風を克服する原動力となると同時に、愛媛同友会の会風の礎となっています。藤井氏の会員としての歩みは“企業経営と同友会運動”の体現者そのものです。

―入会のきっかけは。

藤井:初代事務局長鎌田哲雄氏が愛媛県に来てくれたことが大きい。鎌田氏は愛媛に来ることが厳しい状況にあったにも関わらず足を運び、愛媛県に中小企業家同友会を作ると宣言し、そのために動いてくれました。
愛媛県という地域は保守的な面があると言われています。四国内では工業的な面でも先進的な県であるが保守的な部分があり、当初同友会は周辺経済団体からあまり良く思われてはいませんでした。隣県の香川県や高知県では中小企業家同友会が歓迎されていたのに、何故愛媛県はと当時思っていました。
しかし、そんな周囲の状況にもかかわらず、鎌田氏は初代事務局長として愛媛県に中小企業家同友会を立ち上げようと運動していました。その姿を見て、私も初代代表理事として運動していこうと決意を固め、ともに愛媛県中小企業家同友会のスタートを切りました。

―同友会で学んだことや経営に生きていることは。

藤井:最初は40名ほどいた同友会準備会でしたが、数ヶ月の内に5~6人になってしまいました。当時中小企業家同友会は世間に認知されておらず、「よく知らない何をやっているか分からない会に所属しているなんて、仕事がしにくくなるぞ。」とまで言われていました。同友会運動についての誤解を解きに話して回ったことを覚えています。
中小企業問題をなんとかしなければならない。団結して解決しようという思いがありました。政治的にも弱い中小企業は拠点を持たなくてはいけません。先駆者として、中小企業の拠点づくりを行うことが私の努めだと思って運動していました。

経営に生きていることは、戦後(昭和20年10月)処女航海の別府航路「室戸丸」に乗船し、松山に向かう際、アメリカ軍が投下していた機雷に触れて沈没しました。当時の新聞等でも乗客数が正確には書かれていませんでしたが、死者は355名あるいは475名と云われ、兄は死亡、私は生存者の26名の一人として、生き残った経験があります。このことが印刷業の経営にも、同友会運動を続けていく上でも、私を支えるひとつの覚悟となったのではと考えています。
―会社経営での失敗や成功は。

藤井:失敗はいくつもあります。しかし、常に新しいものを四国で逸早く導入することは、この厳しい経済情勢の中でも毎年黒字経営を続けている要因であり、挑戦し続けること、前を向いて走り続けることを意識してきた結果だと考えています。
オフセット印刷を四国で最初に導入したことなど、先見性を持っていたと自負しています。技術の向上により数年毎に新しい機械ができるが設備投資を惜しまなくてよかったと今でも思っています。

―同友会への期待は。

藤井:中小企業憲章が制定されたが、実効性が乏しい。同友会が実効性のある政策提言をできるような組織になってほしいと思っています。日本の労働人口のほとんどは中小企業です。しかし中小企業の労働環境・労働条件は改善されないままです。中小企業・中小企業労働者で日本は支えられている現実があります。中小企業のため、日本のためにもこういったことを訴えていくような運動をしていってほしいと思っています。

インタビュアー・文責:伊井 達哉(愛媛同友会 事務局員)

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